2012/01/03 新年の誓い カテゴリー:経営
今年1年の前に昨年の振り返り。
1月ー3月は僕が香港から日本へ戻る時期になりました。
園田、田中体制を現地で確立することを進めていましたね。
渋谷の味をもっと美味しくてすること。これ結構苦労しています。本当にいろいろとやってきたのですが、まずは職人がしっかりと育っていないことが一つです。これは時間をかけていくしかありません。作り続けないとこれまた育たない。
あとは設備的にもですね。やっと客数も200人を平均でこえるようになってきましたからそれにあう厨房への変化も必要でした。その為に3月から製麺場の移動、渋谷店に力をいれる「予定」でした。
そう3月11日 14時45分に発生した震災がなければです。
3月6日に日本へもどり、製麺場所の移動と事務所の引越しが重なりかなり大変な時期でした。
移動が終わったのが3月9日ごろですから。新しい場所になって業務開始した矢先の震災。
僕はちょうど西新宿の事務所にいたときに、、ごっごごおごごっっ。相当な揺れでしたね。びびりながら外へ出て「こらもうだめやわ」と思ってしまいました。
西新宿の店にいくと、まだ揺れはつづきます。木造が多いのでグラスやボトルが落ちる落ちる。
たぶん震度7ぐらいあの店は揺れたとおもいます。そして夜に伝わるあの悲劇。もう目を覆いたくなるほどでした。さらに原発事故が続いて。
完全に自分たちの判断で「生きて行くこと」が試された時期。
もうね、僕が経営者としてちょっとでも成長したとしたらここかもしれません。
それは「腹を括った」ってことです。
あの時本当にやばいと思いましたから。スタッフと面談をして僕の実家へワゴン車1台に乗り込ませ
1週間ほど送りました。
正直自分も行くつもりだったんですけどね。事務のいとこの親父さんに報告したときにですね。
「商売しているひとが逃げたらいかん、それはあかん、だってお客さんはどうするんだ?」
最初はおじさんシャレにならんぜ!ちゃんと情報聞いとるとかいね!って思ったけれども。
それと向き合って考えました。この5年間たくさんのお客様に支えてもったこと。
香港でも思いっきり戦わせてくれたこと。
「あーもうなるようになれ!」って感じで覚悟を決めました。数人のスタッフも残る決意があり。
じゃーこの際渋谷だけでもやるかって。なって、変な決意のあるやつが集まりましたね。
しかもみな素人(普段勤務してなかったってことで)もうてんやわんや。
でも思い切ってがんばりました。
あっ渋谷再オープンまで3日位あってその間、某麺とも2人を連日引き連れて
超高級しゃぶしゃぶや、普段絶対にいかない食事をして「これが最後の晩餐」だといって
食い歩きをしてたことは内緒です(笑 まーともかく将来このことが原因で、身体的にどうなるかはわかりません。あとはまかせます。)
この東京で商売をさせて頂いているという自覚みたいなのはこれをきっかけに身についたかなーなんてね。
3月20日ごろになると情報も整理されて自己判断でスタッフが戻ってきました。
ではお店をあけようかと。(あっうんこバンタムだけはちょっと不純な動機で地元にもどってたな。
あとで聞いてぶっ殺そうかとおもったよ)また被災地の情報もリアルに入ってきました。
丁度友人からも物資支援のメールが。
震災当日からまず、状況把握を優先し、そしてできることをやろうと決めていました。
新潟の震災の経験からどのような動きをすればいいかある程度想定できたのは良かったです。
でも次回はもっと早く動けるとおもいます。そう、もっと早く現地に行くこと2段構成が必要。
今日、明日の食事がないのですから。
3月末ー6月頭にぐらいまでほぼ現地に入り対応しました。その間よくお店がもったこと。お客様にも伝わったのか売り上げを下げるどころか上がっていったことは本当に助かりました。ありがとうございます。
まだ現地の活動は模索しているところでもあります。あれだけ過酷な状況から脱したとはいえやはり今でもあおぞら食堂にはたくさんのお客様が来られます。これは必要とされているからだと思います。
そこで歌津の食材をしっかりと使ったものでなにか出来ないかと思って作ったのが
「歌津のあら炊き中華そば」もう魚感たっぷりなラーメン本当に美味しい!
来年も継続できるまでがんばります。※ただいま年明けより社団法人を作る方向で動いています!!
8月ー10月は香港のファクトリーと2号店を一気に形作りに力をいれました。
・・・・続きはまた。